世界連邦運動とは、国際連合の改革と強化を通じて世界法治共同体の実現を目指すものであり、世界各国が世界連邦政府の下、公正な世界法に基づき、世界の恒久平和と人類の福祉を築いていこうとする運動です。
世界連邦は、補完性の原理に基づき、各国々の多様性を尊重しながらも、各国が主権の一部を世界連邦機構に譲渡することで世界法治共同体を建設していくことであり、それは軍事的介入や経済的制裁ではなく「法の支配」によって世界の秩序を構築していくものです。
1945年、核兵器を使用した戦争を二度と繰り返してはならないという科学者、文化人の提起から世界連邦運動が胎動しました。
世界連邦の提唱者であるアインシュタイン博士は、原子力の国際管理を強く主張し、そのためには国際連合の機構および機能を改め、これによって原子力をコントロールする以外になく、また組織的に一切の戦争の主要原因を縮小し、排除することを始めなければならないとしました。
原爆投下の翌年、ルクセンブルグで国際的な運動組織が結成され、「世界連邦政府のための世界運動」という名称のもと、本部をジュネーブに置き、翌年の1947年には「モントルー宣言」を発布。
賛同者には、ノーベル賞を受賞したアインシュタイン博士を筆頭に、シュバイッツァー博士やバートランド・ラッセル博士、そしてパール東京裁判判事など、そして日本からは日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士や憲政の父と称される尾崎行雄といった蒼々たるメンバーがこの運動に参画しました。
冷戦時代においては、世界連邦運動は厳しい状況にさらされたものの、ベルリンの壁崩壊、冷戦の終結、そしてEC(欧州共同体) の設立により国際状況は一変する中で、1995年には世界中の2000以上のNGOが参加する「国際刑事裁判所を求めるNGO連合(CICC)」が世界連邦運動のイニシアティブによって結成され、2002年の「国際刑事裁判所(ICC)」設立条約・ローマ規程の発効に大きく寄与しました。
また、1999年にはハーグ平和アピール市民会議「ハーグ・アピール・アジェンダ10基本原則」の採択にリーダシップを発揮しました。世界連邦運動協会が「世界法治共同体の実現」のために現在もっとも力を入れて取り組んでいるのが「国際連帯税」の導入と、国連の民主化・透明化を促進するための「国連議員総会」設立であり、その実現向けて精力的な活動を続けています。
本部事務局はニューヨークにあり、24カ国に支部を持つ国際NGOであり、国連からも認定されているNGOです。
日本国内では、終戦の年1945年、憲政の父・尾崎行雄が国会に「世界連邦建設に関する決議案」を提出しますが、決議は廃案となりました。その後、1948年、ジュネーブの国際連盟で日本の常任代表を務めていた稲垣守克の働きかけにより、尾崎行雄を代表、協同組合の父・賀川豊彦を副代表という布陣で、日本における世界連邦運動が発動することになりました。
1955年には世界連邦運動協会の理事長であった下中弥三郎(平凡社社長)のイニシアティブにより「世界平和アピール七人委員会」が発足され、1975年には湯川秀樹と朝永振一郎による「核抑止を超えて」が宣言されます。
第5代目の世界の世界連邦運動の会長となった湯川秀樹は、1981年、「核兵器を廃絶し、平和な世界を目指す世界連邦構想は、決して夢ではありません。
人類が本当に平和を願い、幸せに生きることを望むかぎり、道は必ず開けると思います」という言葉を残してこの世を去りますが、その意思は妻スミに受け継がれ、平和の為の市民活動へと発展していきます。
1997年には日本国政府に国際刑事裁判所の加盟を求める『JNICC』が設立され、世界連邦運動協会がその事務局を引き受け、2007年に日本国政府がICC条約へ加盟を果たす上で大きな貢献を果たします。
また、2005年には“世界連邦実現への道の探究”という文言の入った「国連創設及びわが国の終戦・被爆六十周年に当たり更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議」が衆議院で採択され、外務省に世界連邦の窓口が設置されました。
それ以降、毎年この窓口を通じて政府に対する政策提言を世界連邦運動協会は行っています。また、2009年には「NGO国際連帯税を推進する市民の会(アシスト)」が設立され、世界連邦運動協会は共同事務局を務めているほか、日豪元外相による核不拡散・軍縮に関する国際委員会(ICNND)日本NGO連絡会にも参加するなど、精力的に平和の為の活動を行っています。
日本国内には、世界連邦運動協会(市民の集まり)の他に、世界連邦日本国会委員会(国会議員の集まり)、世界連邦宣言自治体全国協議会(各都道府県の知事および市長の集まり)、世界連邦日本宗教委員会(各宗教の代表者の集まり)といった関連団体があり、4つの団体を束ねる組織として世界連邦日本推進協議会があります。